特集:
2008/06/16 日記<駅弁大学>
駅弁大学
駅弁大学(えきべんだいがく)とは、太平洋戦争後の連合国軍最高司令官総司令部|GHQ指導下で行われた学制改革により、「一県一国立大学化」が実現され、各地方に国立新制大学が急増した状況に対する評論家の大宅壮一(1900〜1970)の諷刺から派生した言葉である。もともとは東大出身(正確には中退)である大宅が新制大学を揶揄したものであったが、一般的には、戦後急増した一流とはいいかねる無個性の地方国立大学をイメージするものとしてつかわれる。
背景
戦前のいわゆる旧制大学は、1877年にお雇い外国人により国際的学問水準を確保した旧制東京大学が東京に設立され、1886年の帝国大学令によって、旧制東京大学は唯一の総合大学である帝国大学となった。この帝国大学令が根拠となって複数の学部(分科大学)を有する帝国大学だけが官立の大学として設置を許されることになり、その後、東京の組織を手本に京都帝国大学(1897年)、東北帝国大学(1907年)、九州帝国大学(1911年)、北海道帝国大学(1918年)、大阪帝国大学(1931年)、名古屋帝国大学(1939年)が各地に誕生した。なお、京都帝国大学の設立時に、東京の帝国大学は「東京帝国大学」と改称された。一方、その頃すでに1903年にはいくつかの一定水準に達した旧制専門学校|専門学校が専門学校令による「私立大学」として高等教育にあたっていたが、学位の授与はなく、実業家などの子息がその財力を頼みに進学する先であり、水準は必ずしも高くなかったとされる。その後第一次世界大戦の大戦景気|好景気を背景に高等教育機関の拡充が叫ばれ、その結果1918年に公布された大学令によって官立、公立の単科大学と総合大学|単科大学と私立大学の設置が正式に認められた。これにより、有力な官公立の専門学校と十分な基本財産を持つ私立専門学校が旧制大学として順次昇格していった。しかし、双方をあわせてもその進学率は同世代の男子の数%に過ぎなかった。ところが戦後になると、軍部の独走を阻止できなかった原因のひとつとして健全な知識階級の絶対数の不足が指摘され、再び高等教育機関の大拡充が行なわれることになった。しかし、それは敗戦直後のハイパーインフレーション|インフレ下という最悪の環境下で行われたため、大学新設は質的向上をもたらさず、結局全国の専門学校が一斉に看板を新制大学に架け替えるという「移行」にとどまった。とくに、教員養成課程は戦前は中等学校レベルである師範学校が母体となったため「2階級特進」などと揶揄された。その結果、「日本国有鉄道|国鉄の急行列車|急行停車駅ごとに大学がある」と評されるほどに、全国各地で新制大学が急増した。大宅はこれを諷して「急行の止まる駅に駅弁有り、駅弁あるところに新制大学あり」と発言したとされる。かつての進学校生徒などが「地元の駅弁を出て、でもしか教師になり、気楽な一生をすごすのさ」などと使うのが、典型的な用例であった。
定義
大宅は特定の大学を指して「駅弁大学」と揶揄したことはなく、その定義は明確ではない。「東京都以外に所在し」かつ「法学部・医学部がなく」(ただし、近年医学単科大学と合併したところを除く)かつ「教育学部、経済系学部や工学部が中心」の国立大学を指すと考えるのが妥当ではないかという説もある。主に、「旧制師範学校」や「旧制高等学校」が母体となった新制大学を指し、「旧制高等師範学校」、「旧制女子高等師範学校」、「旧三商大」などが母体となっている場合は駅弁には含まれないと考えられる。 正確な定義は、戦後、旧制高等学校が、他の旧制大学と合併せず、単独で新制大学になった場合を指す。
関連項目
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